トップページ | 2004年8月 »

2004.07.31

音楽ひとりごと(5)伊東ゆかり

伊東ゆかり[歌手]

合歓ポピュラーフェスティバルの話が出たところで、この人について語らせてほしい。
今でも伊東ゆかりといえば、「小指の想い出」という人が多いだろう。事実、思い出のメロディー的な歌謡番組に彼女が出演すると、ほとんどこの歌を歌う。せいぜいたまに「恋のしずく」の時があるくらいだ。確かに、セールス的な観点からすると、このあたりの第一黄金期(1967〜69あたり)に連続して出した大ヒットの何曲か(ほかに「知らなかったの」「朝のくちづけ」など)を、彼女の代表曲と言うべきなのかも知れない。

しかし、彼女をこの何曲かでくくってしまうのはあまりにも勿体ない。私にとっての代表曲は「合歓」で最初のグランプリ曲となった「青空のゆくえ」だ。前述したように、この曲は中学生の私にとって、ある種カルチャーショックに近い衝撃だった。スローな低音のピアノのイントロに続いてそのまま彼女の最低音域での抑えた導入部ではじまる。一転してテンポが上がり、同じメロディーが生き生きとした躍動感を増す。メロディはさらに発展し、開放感のあるクライマックスへと続く。まさにイタリア・カンツォーネの手法なのだが、私はこの曲で伊東ゆかりという人のイメージを180度変えたと思う。歌謡曲よりも、ポップスなのだ。もちろん、もともと彼女はロカビリー以前からの外国曲カバーを歌い続けていた人だ。むしろ「小指の想い出」こそが異端だったのだ。

おもしろいエピソードがある。最初に「小指の想い出」をもらったとき、彼女は「この曲は園まりの曲だ」と固辞したと言う。それでも無理に歌わされて、うまく歌えず、ずいぶん泣いたらしい。歌唱法もそれまでとは違っていただろうし、新しい挑戦を強いられたわけだ。
結果的には彼女の世界が広がったのだと思う。どんな歌でも歌いこなすテクニックを身につけたのだ。

その後も所属事務所やレコード会社を変えながら、「結婚」「明日をめざして」「陽はまた昇る」とスケールの大きな歌を歌ったが、やがて結婚、出産、離婚という変化の時期を迎えた。

やがて彼女の第二黄金期と言えるときがくる。TBS「サウンド・イン・S」での活躍に、「大学生のアイドル」的存在としてクローズ・アップされたのだ。「あなたしか見えない」(リタ・クーリッジのカバー)がこの頃の代表曲だ。アルパムも優れたものを何枚か出している。現在、CS放送(スカパー!)のtbsチャンネルでは、当時の「サウンド・イン・S」を再放送しているが、他の歌手の歌が今聴くと陳腐化して聞こえるのに対し、彼女の歌だけは普遍的なものを感じる。ひとことで言えば「うまい」のだ。音程をはずしたり、「カンペ」を見ながらいかにも「覚え立てです」といった歌い方をするなどということは全くない。どんな曲も安心して聴けるし、それは「彼女の歌」なのだ。英語の発音も米軍キャンプからの筋金入りだから、臆することなく気持ちよく聴かせてくれる。特にエンディングに世良譲のピアノで歌う一曲は、それだけを集めてDVDを作るほど、好きなコーナーである。

今は、レコード・セールス的には厳しい時代だろうが、中尾ミエと組んだり、娘とデュエットしたり、まだまだ意欲的な活動をしてくれているのがファンとしては何より嬉しい。

公式HP

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小堺氏その後

病状があきらかになった。 不幸中の幸いのようだ。 休暇をもらったと思ってゆっくり直して欲しい。 秋には元気な姿が見られるように。

毎日新聞の記事

|

2004.07.30

音楽ひとりごと(4)合歓

合歓ポピュラーフェスティバル(ヤマハ主催)

ヤマハの主催する音楽祭といえば、世界歌謡祭やポプコンを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、それ以前にプロの作曲家・作詞家が競う「合歓ポピュラーフェスティバル」というものが3年間開催された。1969年から71年のことだから、私の中学生活とちょうど重なる。

私は小さい頃から音楽を身近に感じながら育ったのだが、小学校の高学年にはGS(グループサウンズ)に随分傾倒した。いわゆる歌謡曲というものはおとなのものだったから、ビートルズのまねだとかどうだとかということとは関係なく、GSの音楽に親しみを感じた。当時のGSの音楽は、そのほとんどがプロの作曲家によって創られていた。そしてそれが「歌謡曲」ではあるけれど、もっと洋楽寄りの、メロディアスな和製ポップスだったのだ。今それを聴いてみると、歌唱はいわゆるアイドル(そのころはそうは言わなかったが)的な舌足らずなものだが、詩、曲、編曲の全てで優れたものが多い。ストリングスを多用したアレンジが私の好みになったのは、すでにこの頃からである。

さて、話を本題に戻すが、この合歓ポピュラーフェスティバルは、まさにその時代、日本の当時の若手〜中堅の作曲家・作詞家が、新しい音楽を創り出そうと競い合った音楽祭だったのだ。
傾向としてはカンツォーネ風、フォーク風、ロック風、などが多かったと思う。
第一回は、作曲グランプリが宮川泰(ひろし)[青空のゆくえ(伊東ゆかり)]と、中村八大(はちだい)[涙をこえて(シングアウト)]である。 どちらもそれまでの歌謡曲とは違う、胸をわくわくさせる楽曲だった。前者はカンツォーネ、後者は当時のアメリカのグループ「フィフス・ディメンション」のそれぞれコピーだと言ってしまえばそれまでだ。だが、間違いなく日本のポップスにとって、ひとつの転機だったと思う。(このほかにも、そうそうたる顔ぶれが並んでいた)

70年には雪村いづみの「涙」ほかがグランプリ、赤い鳥の「翼をください」は新人奨励賞と川上賞(作曲)を受賞。

そして71年には、あの「出発(たびたち)の歌」(上條恒彦と六文銭)がグランプリ、「窓に明かりがともる時」(赤い鳥)は参加作曲家賞。「君をのせて」(沢田研二のソロ・デビュー曲)は川上賞(作曲)を受賞している。

この年には世界歌謡祭が開かれ、「出発(たびたち)の歌」がまたまたグランプリを獲得した。

このほか印象に残っているのは服部克久作曲の「ハトのいる広場」(布施明)、山上路夫作詞・すぎやまこういち作曲「タンポポが舞う頃」(トワ・エ・モア)などがある。(どちらも70年・曲名はレコード化されて表記が少し変わっている)

ヤマハのHPの資料を見ると、レコード化されていない曲がかなりあるようだ。今また、聴いてみたい曲ばかりなのだが。

ヤマハの資料

| | コメント (0) | トラックバック (0)

同世代として

小堺一機が体調を崩したらしい。 働き過ぎだよ。 早く良くなって欲しい。 もちろん面識はないが、私にとっては幼なじみのような存在なのだ。

毎日新聞の記事

|

2004.07.29

私のこだわり(1)トラックボール

トラックボール (Trackball)

パソコンを操作するときに誰もが使う「マウス」だが、私はこれが嫌いだ。何が嫌いかと言うと、思うようにならないからである。
私が使っているのは「トラックボール」と呼ばれるもので、マウスの裏側にあるボールをマウスの上に乗せ、それを直接手の指先でころがす仕組みになっている。
つまり、マウスのようにデスクやテーブルの上であちこち動かす必要がない。そして、例えばマウスポインタをディスプレイの画面の端から端まで動かしたいときには、思い切りボールを回せばあっと言う間に動いてくれる。
こんなに便利なものを何故みんな使わないのか不思議でしようがないのだ。私はウィンドウズになる前のMS−DOSの時代から使っているのに。

これを読んで下さったあなた、だまされたと思って是非使ってみてほしい。もちろんマウスに慣れている手には、最初は使いにくいかも知れないが、すぐに慣れてその良さが分かるはずだ。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2004.07.28

TVひとりごと(1)トーク番組

トーク番組×3

私はテレビでドラマというものをほとんど見ない。 どんなものでも嘘っぽく思えてしまうからだ。
その代わりと言ってはなんだが、毎日朝から昼間に放送しているトーク番組をビデオでチェックしている。

・はなまるカフェ
  司会の岡江久美子は、私と歳も誕生日も全く同じである。 彼女の大雑把な感じと薬丸裕英のまめな部分とがいい感じで見ていて楽しい。
・ごきげんよう
  小堺一機も昭和31年生まれだ。(学年はひとつ上だが) 彼がN児(東京放送児童合唱団)に在籍し、「歌はともだち」に出ていた頃から見てきた。彼がいわゆるコメディアンとなるきっかけとなったTBS の番組「銀座Now! 」は伝説の番組だ。同じ世代として笑いのセンスに共感でき、安心して見られる。
・徹子の部屋
  黒柳徹子は母親と同世代である。クイズ番組で常に好成績を上げる博識な一面があるかと思えば、実は単純な足し算など算数にからきし弱いなど、多面性が面白い。出演者も幅広いジャンルに渡り、この番組で知った人も多い。

共通して言えることは、そこには嘘がないと言うことだ。例え表面を飾っていても、テレビカメラは容赦なくそれを暴露する。普段演技している俳優が司会者の誘い水につい素を見せたりする。また、画面では馬鹿ばっかりしているコメディアンが案外まともだったりする。

興味のないゲストの時は見なかったり早送り再生で済ませたりする。ビデオで見る利点である。極めてわがままに見ている。それでも司会者の進行がうまければ、大抵は楽しく見られるものだ。

それにしてもろくなドラマがない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.27

ココログ・ナビ・デビュー

「更新通知」の設定をしました。 みなさん、よろしくお願いします。

|

音楽ひとりごと(3)山本潤子

山本潤子[フォーク歌手]

この人は言わずと知れた70年代のフォーク・グループ「赤い鳥」のメインボーカルだった人だ。その後のポップ・コーラス・グループ「ハイ・ファイ・セット」では、紅白にも出場したが、元来、歌手としては地味な人である。

「赤い鳥」は女性二人と男性三人の五人グループだった(後に何人かの出入りあり)が、もうひとりの女性ボーカルの平山泰代の線の細い声よりも、透明感のある高音と、温かみのある低音を併せ持つ、この人の声が好きだった。 旧姓は新居潤子だったが、メンバーの山本俊彦と結婚して山本姓になった。

さらにこの人は業界内でも人気があると言う。アルフィの坂崎氏もぞっこんのようだ。 いわゆる「玄人受け」のする人なのだ。

私が特に好きなのは、山上路夫/村井邦彦コンビの和製フォーク作品である。「翼を下さい」は言うまでもなく、「忘れていた朝」「言葉にならない言葉」「窓に明かりがともる時」など、心にしみいる名曲だ。

「赤い鳥」の最後のオリジナル・アルバム「書簡集」では、既にそのあとの二つのグループ「ハイ・ファイ・セット」と「紙ふうせん」のカラーが対照的に反映された曲が並んだが、私はこれがとても嬉しかった。 まさにこの「ハイ・ファイ・セット」路線が望んでいたものだったからだ。

「ハイ・ファイ・セット」になってからは荒井由実・松任谷由実の曲で彼女の声が生かされた。 「卒業写真」「冷たい雨」「最後の春休み」「霧雨で見えない」等々・・・。 そして荒井/村井のコンビである「スカイレストラン」「土曜の夜は羽田に来るの」「幸せになるため」を彼女が歌えば、これはもう夢の共演だ。(^^)
知る人ぞ知るというエピソードは、荒井由実の「あの日に帰りたい」は、初めこの「スカイレストラン」の歌詩だったという。 テレビドラマ「家庭の秘密」(池上季実子主演)のテーマにするにあたってボツになり、歌詩を作り直したのが「あの日・・」で、一方のボツ歌詩に村井が曲をつけたものが「スカイ・・・」だったわけである。 そして「あの日・・」のイントロのスキャットはもちろん、山本潤子その人である。

現在も彼女は地道な音楽活動を続けている。白鳥英美子(トワ・エ・モア)、森山良子とユニットを組んだり、若手ミュージシャンとグループ活動をしたり、またソロで同世代の歌手たちと共にツァーをする等々。 これからも彼女を見守り、またその声で癒されたいと思っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.07.26

映画ひとりごと(1)サウンド・オブ・ミュージック

サウンド・オブ・ミュージック(1965日本公開・アメリカ)

初めて見たのは公開年度から見て、小学校3年生の頃だと思う。もちろん、自分の意志でではない。その前後にはこれと原作を同じくするドイツ映画「菩提樹」も見た記憶がある。またウィーン少年合唱団を描いた「美しき青きドナウ」なども見に行っている。これらはモノクロだった。そして、これらはみな母の好みだったのだ。

これらの布石があっての「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
超ワイドのシネマスコープにフルカラーの、アルプスの大自然を描いた大画面には圧倒された。そして素晴らしい音楽の数々。名コンビ、ロジャースとハマースタインの創り出したスケールの大きい数々の名曲は映画を盛り立てた。

子供心にジュリー・アンドリュースの歌声は好きだった。決して美人女優ではないのかも知れないが、憧れだった。

その後何度も日本で公開されたが、その度に見に行った。二度目からは自分の意志だった。今のようにビデオもDVDもない時代だ。自分が成長するにつれ、違った理解をしてきたと思う。高校生のときは当時のガールフレンドと見に行ったのも懐かしい。

今ではDVDで撮影時のいろいろなエピソードも見聞きすることができる。本当に良くできたミュージカル映画だと思う。
ちなみにサントラのLPはすり切れて二枚目を買った。もちろんCDが出たときも買っている。

蛇足だが、この映画を初めて見た翌年、私と兄は自分たちの意志で「少年合唱団」に入団することになる。
さらに付け加えれば、その合唱団で指導して頂いた「大町ますみ」先生(早大グリークラブ出身のグループ、ボニー・ジャックスのオリジナル・メンバー大町正人氏の夫人である)は、私にはまさに「ジュリー・アンドリュース」に思えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.25

もうひとつのプロフィール(1)パソコン歴

私のパソコン歴

1983年12月  PC-8801 Mk II (NECの8ビット機)
 この年初ボーナスを頭金に。 (本体定価¥225,000)
 プリンターは16×16ドットだった。(もちろんモノクロ/ドットインパクト)
 それでも手書きよりも見栄えのする印字に感動したものだ。
 フロッピーは5インチの2D。

1985年 8月  PC-9801VF2
 (NECの16ビット機/MS-DOS) (本体定価¥348,000)
 プリンターは24×24ドットになった。(これもモノクロ/ドットインパクト)
 四倍角という文字の大きさが嬉しかった。
 フロッピーは5インチの2DD。すぐに2HDのVM2にしておけば良かったと後悔した。
                    
1988年12月 PC-286V
 (エプソンの16ビット機 = NEC/98シリーズ互換機/MS-DOS 2.x)
 (本体定価¥298,000)
 フロッピーは5インチの2HD。
 パソコン通信にはまったのもこの頃からだ。モデムの通信速度は、1200bpsや2400bpsという時代。現在のものさしで考えれば、0.0024Mbpsという数字だ。現在が10Mbpsだとすると、軽く四千倍を超える速さとなる。当然まだ画像などはなく、文字だけの世界だった。
 パソコン通信については後日書こうと思う。

1995年6月  Macintosh  LC-630
 (アップルのパワーPC以前の63Kと呼ばれるCPU機/OS:漢字トーク 7.2)
 (本体定価不明)
 フロッピーは3.5インチの2HD。 CD-ROM ドライブが付いた。
 MOも外付けで導入。
 憧れのマックにとうとう乗り換えた。カラー画像の時代に突入。
 インターネットの夜明けも迎えた。 通信は64000bpsのISDNに。
 プリンターもやっとフルカラーになったものの、まだまだ写真画質にはほど遠いものだった。

1999年12月 iMac DV/SE 400
 (アップルのパワーPC G3/CRT一体型/カラー:グラファイト/OS:MacOS 9.2)
 (本体定価¥178,000)
 フロッピーはしばらく外付けで使ったが、直に自然消滅となる。
 内蔵HDは13GBであった。
 スキャナーの性能も向上し、写真画質に限りなく近づいたプリンターと共に、自家プリントの時代へ。
 そしてホームページの立ちあげにもこぎ着けた。 通信はISDNからADSLに。
 音楽をパソコンで聴くようにもなった。

2002年9月   iMac 17" TFT 800
 (アップルのパワーPC G4/OS: MacOS 10.3)
 (本体定価¥249,800)
 家庭内LANを構築。 インターネットはADSLから「TEPCOひかり」へ。
 顔料系のプリンターとデジタルカメラで、完全に自家プリント化。
 CDもDVDも焼けるようになった。
 「august-1956.com」の独自ドメインを取得し、現在に至る。

こうしてみると、時代の流れを感じる。 また、いかに98時代のパソコンが高価だったかもわかる。
iMacにはディスプレイの価格も含まれているのだ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.07.24

音楽ひとりごと(2)冨田勲

冨田 勲(とみた いさお)[作曲家]

私がこの人の名前を初めて知ったのは、高校二年か三年の頃、ドビュッシーやムソルグスキーの名曲を、当時はまだ世界に数台しかなかったとてつもなく大型の「シンセサイザー」を使って一人で演奏したアルパムがグラミー賞にノミネートされて話題になった時であった。 そのサウンドは新鮮で私はすっかりはまってしまった。 LPを何枚か買い、カセットに入れ、挙げ句の果て軽井沢のキャンプまで持って行って聴いたのが懐かしい。 この軽井沢キャンプの話題は季節柄、私の関連の掲示板で繰り返し話題になっているのでもうお馴染みだろう。 同行していた人たちからは、「なんだかピコピコポコポコ、食事の消化にいいんだか悪いんだか」と言われたものだ。 まだウォークマンもない時代の話である。

その後、この人は本来クラシックの作曲家であることを知り、同時にテレビ番組のテーマ曲を数多く手がけていたことを知る。 子供心になんと日本的で美しい旋律だろう、と思っていたNHKの「新日本紀行」や、動物の生命があふれるオープニングテーマ曲の手塚治虫アニメ「ジャングル大帝」をはじめ、NHK大河ドラマは数知れず、最近では山田洋次監督の映画「学校」シリーズが記憶に新しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

音楽ひとりごと(1)バラード

バラード第一番(ショパン)

この曲は、こどもの頃毎日聴いていた。 私の実家のお向かいに、芸大出のピアノの先生がやっている音大生専門の下宿屋があって、そこの学生の練習曲として、私の耳に入ってきていたのだ。 繰り返し聴かされても、聞き飽きることはなかった。 耳に馴染み、すっかりからだの中に入ってしまったかのように、とても好きな曲だ。

もちろん、自分では弾けない。 これが弾けたら音大に行ってただろうけど。 私は何でも中途半端だ。(^^;)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すっかり忘れてた

ココログ、あったんだよね。 心機一転、始めるか。

|

トップページ | 2004年8月 »