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2004.08.31

新iMac

新しいiMacが発表された。本体が消えたようなデザイン。つまりディスプレイだけなのだ。

確かに画期的でスマートだが、愛着が持てるかな。

新iMac

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セットアップ完了

やっと会社のパソコンが使えるようになった。ディスプレイもあっけなく繋がった。(これが当たり前なのだが)
ディスプレイは*ドバシの大サービスで17インチが手に入った。ところがパソコン本体が高解像度に対応してないため、15インチの画面をぼかした感じでいまいち。それでも文字が大きいというのは*眼の私には良いのかも。

プリンターもOK。外付けHDもOK。トラックボールもOKだ。
早速、今月最後の請求書を作成した。115万円也。

明日はブルートゥース(無線)をインストールして、デスクトップもPHSでインターネット接続しようと思う。メールくらい使えないとね。ノートン先生のお世話にもならなければ。

まだまだやることは山積みだ。

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2004.08.30

経過報告

土日の奮闘にもかかわらず、まだ会社のパソコンはまだ使えない。

壊れたパソコンのメーカー(*EC)のサポートや、*ドバシの店員と相談しながら、ディスプレイはそのまま生かして、本体を*OTEC の最安機種に代えることになった。旧パソコンはどうやらマザーボードがいかれたらしい。修理には二週間と数万の費用がかかるという。一年の保証期間が切れたばかりだ。

ところがいざディスプレイをつないでみても(インターフェイスが違うので、ここまでも大変だった)ディスプレイに信号は届かない。昔から*EC には独自路線が過ぎるところがあるが、これもそのためか。そもそも何故一般的なインターフェイス(HD-D sub 15ピン)を使わないのか。(DVI-I 29ピン)

ということで、*ドバシの店員に交渉して*ッファローのディスプレイを今日、格安で仕入れてくる。

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2004.08.26

緊急事態発生?

数日前から会社のパソコン(ウィンドウズ・デスクトップ)が頻繁にフリーズするようになっていたのだが、とうとう、起動不可能となった。HDのトラブルなのか、セーフ・モードでさえ、立ち上がらない。もともと、インターネットにはつながっていないので、ウィルスの可能性は低い。この一年ほど、私以外は触っていない。XP搭載マシーンなので、そんなに昔の機種ではない。原因が全くわからない。

小堺一機が月曜日から「ごきげんよう」に生で復帰だそうだ。一方私は見積依頼ラッシュと、このPCトラブルのため、"Monolog"は、しばらく、お待ちいただきたい。

追伸:長嶋ジャパン、銅メダルおめでとう! 中畑ヘッド・コーチ、お疲れ様。

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2004.08.22

高校野球

駒大苫小牧 おめでとう

今年も夏の高校野球が終わった。オリンピック騒ぎに紛れて、陰が薄かったが、今日の決勝戦は見応えがあった。
打撃戦で、逆転また逆転のゲームだった。それだけに選手のみならず、監督も涙、涙のインタビューだった。

子供の頃は、当然ながら高校野球は歳のずっと上のお兄さんたちのスポーツだった訳だが、正直言うと、その感覚は自分が大学生になっても少し残っていたように思う。それには、自分の年齢に対する自覚がなかったためもあるだろうが、やはり選ばれた人たちのオーラのようなものが、彼らを大人に見せるのだろうと思う。

もちろん、自分が50にもうすぐ手が届く今となっては、そのような感覚はないが、最近では監督の人たちがちょうどそれと同じようなことになっている。つまり、優勝して泣きながらインタビューに答えていた駒大苫小牧の香田監督は、とても貫禄があるように見えるが、私より一回り以上若い32歳だそうだ。そう言われてみれば、泣き顔が可愛くも見える。

私は日付が変わると48歳になる。誕生日のメッセージ、プレゼントを既にいただいた。
みなさんにまたまた感謝。

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私のお気に入り(4)中学時代の友人

中学時代の友人たち

10月に予定されている中学の同期会の準備のために、男女6人が集まり池袋の蕎麦屋で飲んだ。
と言っても私は下戸だから徹底してアルコールなしだ。ほかの連中はみな、いける口なので、酔いが回る前に打ち合わせ事項を確認し、その後ほっとして談笑した。ついでながら、二日早い誕生日の祝杯も挙げてくれた。

友はいいね。仕事の悩みも忘れさせてくれる。みんなもそれぞれいろいろあるはずだが、いい顔してた。

明日はまた日曜返上でデスクワークだが、今夜はいい夢を見られそうだ。
みんなに感謝。

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2004.08.20

夢の話(1)

今まで見た中で、一番忘れられない夢は、大きな鳥が空を飛ぶ夢である。
実家の近くで、25年ほど前に地下鉄有楽町線の開通に伴い新しい道路ができたが、そのために私が大成小学校へ通っていた通学路が分断された。ちょうどそのあたりの、夢の中では昔のままの道路の上空が舞台だった。今でもはっきり覚えている、私としては珍しい夢だ。

それはそれは大きな鳥だった。飛行機が飛び立ったばかりの至近距離を飛ぶくらいの大きさだ。しかし、動きはとてもゆっくりしていた。スローモーションのようだった。ゆっくり、ゆっくり、私の頭上ではばたいていた。そして何より印象的だったのが、その色である。形は白鳥のイメージだったが、鮮やかな青と緑の間のような極彩色だった。しかも、夜の闇の中でさほど明るくなく、その色が浮かび上がっていた。

ちょうどその頃、前述のシンセサイザー音楽、冨田勲「ダフニスとクロエ」のアルバム・ジャケットがそんな色遣いだった。その影響はあったはずだ。レコード店からもらった大判のポスターも部屋に飾っていたからである。1979年発売だから、時期もぴったりだ。

今でもその色は好きな色だ。単色ではない。混じり合ったような色だ。もし、夢判断をしたら、どのような答えが出るのだろう。

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2004.08.18

アテネ・オリンピック

開会式

遅ればせながら、ビデオで開会式を見た。今回の開会式は夜という舞台装置を生かして、大変視覚的に美しいものになっていたと思う。照明の色彩や、古代と未来が融合したようなパレード、特に宙を舞う演出には、目を見張った。今までもロケットを背負って飛んだりということはあったが、なにより、優雅で格調高かった。

早くも日本勢の活躍には驚くほどだが、二週間の大会期間中、なにより平和に終わって欲しいと願う。

頑張れ、柳本ニッポン!

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私のこだわり(6)PENTAX

PENTAX (ペンタックス = カメラ・メーカー)

私が、ニコンやキャノンではなくペンタックスを選んだのは、そもそもは単なるタイミングだった。
最初の就職をしてすぐに、自分のカメラを手に入れたのだが、そのときまさに、今では当たり前になった「オート・フォーカス」の国産一号機がペンタックスから発売されたばかりだった。それまで、父親のキャノンや、子供時代は兄弟共有のオリンパスのハーフ・カメラで遊んでいた。

ちなみにこのハーフ・カメラというのは、今よりも貧しかった時代に、35ミリのフィルムをひとコマの半分ずつ使って撮影するという代物。12枚撮りがたちまち24枚撮りになると言うわけだ。

学生時代は父親のキャノンを持ち、神宮球場へ通って大好きだった大杉勝男選手を撮ったりしていた。

話を元に戻すと、自分の稼ぎでカメラを手に入れようとしたそのときに、テレビ・コマーシャルで「ベルリン・フィルの12人のチェロ奏者たち」(別名:スーパー・チェロ軍団!)が演奏する様子をカメラが捉え、ピントが自動で合って緑のLED が点き、ピピッと電子音が鳴る・・・、という当時のテクノロジーの最先端を行くような映像に釘付けになってしまったのだ。

それが私の初代カメラ、PENTAX ME-F だ。だが、それからしばらくは、それなりにスナップを撮るだけだった。
また、このころ、まだ社名は「旭光学」で、「アサペン」とも呼ばれていた。

そして私が写真にはまるきっかけとなったのが、友人の子供たちをコスモス畑の中で撮るという場面に遭遇したことだ。できあがった写真は、今考えれば他愛のないものだが、その時はまるでプロのカメラマンになったような気分になって大伸ばしにしないではいられなかった。初めて「絵」になった写真だったのである。それから写真の面白さに夢中になった。

時を同じくしてはまっていたパソコン通信の仲間に、ポジ・フィルム(スライド)を薦められたのも拍車をかけた。透明度の高い、ネガとは違う発色の良さに、目から鱗が落ちた。

その後、SF-Xn、 Z-1 と続くが、中判カメラ(PENTAX 67) とも出会い、一貫してペンタックス一筋で来た。ペンタックスの良いところのひとつは、レンズの互換性にある。カメラが変わっても、「K マウント」と呼ばれるシステムで統一されていて、新しいテクノロジー(AF やAE など)が加わってもその姿勢を崩さなかった。67のレンズでさえもアダプターを介して35ミリカメラで使うことができるのだ。(ペンタックスには645 もあるが、同様である)
ニコンやキャノン、ましてやミノルタには中判カメラはないし、マウントにもいくつかのシリーズの違いがあると聞く。

ところが時代がデジタルへ大きく流れを変えることになったとき、ペンタックスは出遅れた。しばらくはソニーのデジカメに頼るしかなかった。当初35万画素だったデジカメは、あっという間に100万画素→200万画素と100万ごとに画素が増え、500万を超えたときにやっとペンタックスがデジタル一眼という形で追いついたのである。「*ist D」(イスト・ディー)は満を持して600万画素で登場した。私はしばらく眠っていたペンタックスのレンズが活用できるようになったことが、なにより嬉しかった。

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2004.08.16

私のお気に入り(3)杉田かおる

杉田かおる[女優]

わたしは「ちーぼー」のときはあまり見ていなかったし、「金八先生」の世代でもないが、「池中玄太80キロ」では、しっかりもののお姉さん役を好演していて、好きだった。こんなタイプの嫁さんを探そうとさえ思っていた。

池中玄太のイメージ・ソング「鳥の詩」は、その歌詩の素晴らしさ(阿久悠)と曲の美しさ(坂田晃一)と共に、彼女の素直な歌唱も好感が持てた。ちなみにB面の「みかん」は、大竹しのぶのカバーだ。

この曲が新録・旧録併せてCD 化されるとか、池中がDVD になるとか、はたまた24時間テレビで走るとか、話題の多い彼女だが、かつてのイメージを覆す、その全てあからさまな発言に、いつも、はらはらしながら見ているが、何故か嫌悪感にはならなかった。先日の「思い出のメロディー」では天地真理と同じ扱いをされていて気の毒だった。これからも正直に生きて、活躍して欲しい、と陰ながら思っている。

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私のこだわり(5)オーケストラ

オーケストラ

きっかけは、イージー・リスニングだった。ポール・モーリアがメジャーなところだが、私はマントバーニが好きだった。結構はまって聴いていたら、兄に「こんなのどう?」と教えられたのがチャイコフスキーの交響曲第六番"悲愴" だった。それは目から鱗だった。クラシック音楽には近い環境にいながら、ベートーベンだ、チャイコフスキーだというのはどこか堅苦しく、音楽の授業でもあまり興味を持っていなかったからだ。

イージー・リスニングとは全く違う重厚なサウンドと、予想外の美しいメロディに、すっかり夢中になってしまった。ただ、"悲愴" はフィナーレが重く暗いので、ピアノ協奏曲やら第五番以前の交響曲などと、だんだん聴き進んでいって、だんだんとクラシック音楽の世界に染まっていった。

高校から浪人時代、大学時代と、親のスネをかじってN響の会員にまでなり、毎月のようにNHK ホールへ通った。今考えれば、随分贅沢をさせてもらったと思う。もちろん最上の席ではなかったが、さほど裕福ではなかったにも拘わらず、貴重な時間を持つことができた。

この期間にあらゆる作曲家の作品を聴いた。当然のことながら、演目は自分で選べないからである。そこで知ったのがリヒャルト・シュトラウスだ。それまではシュトラウスといえば、ヨハンだったし、映画「2001年宇宙の旅」で「ツァラトゥストラ」は知っていても、あの冒頭部分の後は聴いたことがなかった。チャイコフスキーよりは年代が新しく、難解なイメージもあったが、これまた美しい旋律とドラマティックな構成に魅了された。「ツァラトゥストラはかく語りき」のほか、「ドン・ファン」「ドン・キホーテ」「アルプス交響曲」そして一番のお気に入りの「英雄の生涯」など、弦楽器とホルンを多用した拡がりのある音楽にまた、はまってしまった。

それからは、ポップスと言えども、薄っぺらなアレンジの曲では満足出来なくなった。ストリングスにこだわる理由はこの辺りにあるのだ。

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2004.08.14

私のお気に入り(2)バレー・ボール

バレー・ボール

オリンピックが始まった。 オリンピックといえば、柔道・山下泰裕選手の涙の金メダルや、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪など、印象深いものは数あれど、私にとっては、なんと言っても男女バレー・ボールの全盛時代である。

女子は日立黄金時代の白井・松田・江上・矢野・加藤・荒木田・金坂・飯田(ヤシカ)を擁するモントリオール・オリンピック・チームの全試合ストレート勝ちのぶっちぎり金メダル。松田の名セッターぶりに憧れた。
男子は準決勝・決勝とすれすれの逆点優勝で連日大興奮のミュンヘン・松平全日本。南・猫田・大古・嶋岡・横田・森田などのスター選手たちの中で、出番は少なかったものの、要所にベテランのいぶし銀わざで男気を見せた中村祐造キャプテンの大ファンだった。(その後の彼が率いる最強・新日鐵堺の名セッターだったのが、女子バレーの現・柳本監督だ)

しかし、忘れてならないのはやはり、東京オリンピックの「東洋の魔女」だ。私は小学校二年生だったが、今でもはっきり覚えている。家族五人(弟はまだ二歳だったが)で大騒ぎで見た白黒テレビの画面、だけではなく、気が付いてみたら母親がすっかり夢中になった結果、夕食を作るのを忘れていて、放送終了後みんなで大笑い、のひと巻だった。考えてみればそのとき、母はまだ31歳だったわけだ。

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音楽ひとりごと(8)筒美京平

筒美京平[作曲家]

この人は昭和40年代から平成に年号が変わる前後まで、当代きってのヒットメーカーだった。
初のヒットは"バラ色の雲"(ヴィレッジ・シンガーズ)だが、いしだあゆみのデビューあたりから頭角を現し(デビュー曲は"ブルーライト・ヨコハマ"ではなく"太陽は泣いている" である)、「新・御三家」と呼ばれた野口五郎は二曲目の"青いリンゴ" から(デビューは演歌だった)、郷ひろみはデビューの"男の子女の子" から、それぞれほとんどの曲が彼の作曲だし、一番縁の薄かった西城秀樹でさえ、デビュー曲"恋する季節" は彼の曲である。 そして南沙織、麻丘めぐみ、太田裕美、岩崎宏美などもシングルの六〜七割は筒美作品で占められている。そのほか、知る人ぞ知る"真夏の出来事"(平山三紀)のほか、サザエさんの主題歌、"また逢う日まで"(尾崎紀世彦)、"さらば恋人"(堺正章)、"魅せられて"(ジュディ・オング)などなど、挙げればキリがない。

私としては、伊東ゆかりとのコラボレーション・アルバム「ふたたび愛を」が一押しだ。このタイトル曲は、もともと平山三紀のアルバム曲として作られた曲だし(麻丘めぐみのアルバムにも収録)、小川知子やいしだあゆみなどのカバーが多いのだが、オリジナルとして「東京音楽祭」で歌唱賞を取った"陽はまた昇る" (もともとこのアルバムは、その受賞記念で企画された)などの数曲を加えて、見事にトータル・アルパムとして仕上がっている。 後にこのコンビは"誰も知らない" というクリーン・ヒットも生んでいる。

さらに隠れた名曲は高橋真梨子の1992年発表のシングルA・B面となった二曲"とまどい小夜曲(セレナーデ)" "それでもあなたがいるだけで" である。彼女としても少し異色の曲だが、実にしっとりしていて良い。

とにかく、このひとの曲だけでベストものを作ったら、いくらでもできる。何年か前には静かなブームとなり、改めて多くの初CD化がされたのが大変嬉しかった。

さすがに全盛期の勢いはないが、まだまだこれからも名曲を期待できる作曲家であるには違いない。

お詫びと訂正: 「ふたたび愛を」は平山三紀がオリジナルでした。 お詫びします。 本文も書き換えました。

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2004.08.12

私のお気に入り(1)オジギソウ

オジギソウ

夢のように過ぎ去った軽井沢の二日間だった。東京の猛暑はまだ終わりが見えないが、私の部屋にもわずかな癒しの緑がある。既に「写真日記」で公開済みだが、先日ホームセンターで見つけた「オジギソウ」だ。実に不思議な植物だ。インターネットで検索すると、その不思議を解説しているページもいくつかあるが、どうして刺激で葉を閉じ、枝をたたむのか、はっきりとはまだ判らないらしい。繊細で、開いた葉の"ポヤポヤ" とした感じがたまらない。
昔、やはり葉の"ポヤポヤ" とした「アジアンタム」を見事枯らせた経験のある私だが、今度は失敗しないようにと話しかける毎日だ。特にこの猛暑で土の乾きが早く、かと言って水をやりすぎるとカビが土の表面にできたりする。沖縄産のカビよけスプレーで必死の応戦だ。

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2004.08.11

パソコン通信

1990年代前半は、インターネットの夜明け前であり、知る人ぞ知るパソコン通信の全盛期だ。電話線を使ったアナログ通信は、今の1000分の1ほどの通信速度で、文字だけのやりとりが全てだった。通信をしている間は、回線を占有するため、電話は通じなかった。パソコン通信の運営は、@nifty(アット・ニフティ) の前身「ニフティ・サーブ」などの大手のほか、個人レベルで成り立つ「草の根BBS」というものが全国的に数多くあった。

私が参加していたのは、ニフティ・サーブと、草の根BBS のひとつ「ひかりNET」だった。これは練馬区光が丘の公団団地に住む「ISO(イソ)」氏が運営する家族的な雰囲気のあるもので、文字だけの掲示板が話題のジャンルごとにいくつかあり(フリートーク、音楽、アニメ、俳句、自動車、アマチュア無線などなど)参加者は自由に現在の掲示板のように書き込みを楽しんでいた。
その中でも私は「音楽」の掲示板の担当者(シグオペと呼ばれた)になり、話題を提供したり会員の書き込みにレスをしたりの役目を任されていた。

その中で生まれたのが「KUMA・コレクション」と呼ばれた、私の選曲で作ったカセット・テープのシリーズだ。その時々の季節にちなんだもの、アーティスト別のもの、ジャンル別のものなど、数多くのコレクションができた。もちろん、まだ音楽のやりとりなど不可能だったが、どんな曲を選んでどのように並べたかを文字で書き、みんなに紹介した。なんとも幼稚なことだが、それにまたコメント(レス)をもらったり、ほかの人が「私ならこうする」と違うアイデアを紹介したりして、結構盛り上がったものだ。

また、もうひとつの楽しみが「オフ・ミーティング」と呼ばれた、会合だった。これは通信が「オン・ライン」なのに対しての「オフ」のミーティングという意味だが、つまり、実際に顔を合わせて話し合うものだった。そこで普段文字だけでやりとりしている人がどんな人なのかを知ることになり、意外性を楽しんだりしたものだ。中には女性の名前を語った男もいて「実は・・・」と自己紹介して大笑いし、その人に「失恋」した人もいたとか。毎月のように池袋でカラオケパーティーをしていた。

そしてその「オフ・ミ」でカセットの貸し借りをして、実際に聞かせ合うこともできた。アナログな時代である。
ユーミンは全6巻、そのほか初夏の季節もの"May Breeze" や秋の"Autumnal Tints"、クリスマス曲集などなど。自分の好きな曲を並べたのだから、不思議なことではないが、私にとってはこれらのカセットは今でも「現役」なのである。90分テープを使うことが多かったので、MD にもCD にも移行することが面倒なせいもある。その結果、私の車のオーディオは純正やオプションにもない、カセット・CD・MD 全てが聞けるものにしてある。最近ではこのようなものはあまりないだろう。(MP3 というものが台頭しつつあり、iPod の音をFM で受信して聞いてもいる)

今ではこのようなコレクションを作るのもCD-R を使うことになるだろうが、まだまだカセットも捨てられない私である。
そして、このパソコン通信時代から続く友人関係も大事にしていきたいと思っている今日この頃だ。

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2004.08.10

帰還

休みの二日間があっと言う間に過ぎた。三日目を残すのみとなったが、明日は休み明けの段取りだ。それでも充実した二日間だった。

「写真日記」で経過報告済みだが、初日は日曜礼拝で始まった。実はそんなつもりはなかったのだが、同行した母親との会話で当日が日曜日だと気づき、以前にも何度か立ち寄った、同じ宗派の教会である、「ショー記念礼拝堂」へ行くことになったのである。この"ショー" という人は、「避暑地・軽井沢」の生みの親である。当然、この礼拝堂は、軽井沢初のキリスト教会である。そういう意味で、史跡としての価値もあるのだが、そのアンティークな落ち着いた雰囲気は、印象的である。

礼拝堂には九時半頃には着いた。そこで母親の古い知り合いである老婦人と偶然に出会い、ふたりは積もり積もった話に花が咲く。礼拝後も別れがたい様子だったので、近くの万平ホテルで昼食を共にし、さらに追分の別荘へとなだれ込んだ。
私としては礼拝堂周辺で、もういくらか写真は撮っていたので、二人の会話の時間を仮眠にあてた。四時過ぎてやっと重い腰を上げ、北軽井沢の恩師の別荘へと向かった。

結果、当初予定していた「高峰高原」行きは翌日に変更となった。

恩師というのは実は私のカブスカウト時代の隊長だった方で、某私立小学校を退職されている。同じ教会なのでいつでもお会いできる方なのだが、私が教会へ滅多に行かないので、今度は夜遅くまで私が話し相手になった。

翌日は朝食後、早々に出発。高峰高原へ向かったが、途中の池ノ平湿原でかなりの時間を過ごした。残念ながら"コマクサ" は時期が既に終わり、"ヤナギラン" と"アザミ" "マツムシソウ" が盛りを越えた頃だった。晴れ間が覗いたり、霧が流れたり、目まぐるしく天気が変化した。

昼食もそこで済ませ、高峰高原へ林道を走った。沿道にもヤナギランが見えた。
そして思い出の地だが、様子は一変していた。建物はその位置を微妙に変え、新しくなっていた。わずかに尾根づたいにつづく地形だけが、なんとなく記憶と重なった。

そこでしばし、仮眠を取り、雲行きが雷と共に怪しくなってきたところでまた偶然があった。実家の近所の親子とバッタリだった。息子のほうは私の中学の一年下である。こんなところで会うとは、とお互い苦笑いだった。

そのうち大粒の雨が降り出し、車で走り出すと、瞬く間に豪雨となった。小諸まで降りたが、気温はまだ22度くらいだった。佐久から高速に乗り、お世話になった方々としばしの休息をくれた高原に、心でお礼をいいながら碓氷峠を下りると、車外の温度計はあっという間に30度を超え、現実に引き戻された。

行きの快調な車の流れに対し、帰りはやはり所沢手前でかなりの渋滞になった。
所沢で降り、裏道を帰ると、必然的に我が家の方向へ向かうが、母を実家まで届けなければならなかったので、家で荷物を降ろし、エアコンのスイッチを入れて実家まで向かった。それから帰っても、まだ部屋は涼しくなっていなかった。

さてさて、HP の更新をしなくてはいけないが、とりあえず少しずつ「写真日記」で紹介していこうと思う。

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2004.08.08

束の間の夏休み

突然だが、3日間休みにした。 盆休みにも仕事が入って、最悪この後の日曜日も休めなくなりそうなので、強引に2日空けた。ささやかな、束の間の夏休みだ。

早朝、群馬の嬬恋(北軽井沢)へ向かう。優雅な避暑と思うなかれ、図面と書類を持っての猛暑脱出だ。リッチな別荘持ちと思うなかれ、恩師の別荘に転がり込むのだ。

しかし、写真はしっかり撮る。 時間さえあったらシャッターを押す。

さて、FOMA での初モバイルは成功するだろうか。PHS の届かないところである。その是非は明日の「写真日記」で。

追伸: 「思い出のメロディー」を見た。伊東ゆかり・中尾ミエ・園まりでスパーク三人娘か。その時代はさすがにリアルタイムでは知らないところだ。
   また、天地真理の名を語ってうなっていたのは、一体誰だったのか。NHK にプライドはないのか。(失礼)

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2004.08.06

音楽ひとりごと(7)さだまさし

さだまさし[フォーク歌手]

さだまさしという人は不思議な人だ。多面的と言ったらいいだろうか。一般的には”関白宣言”が代表曲ということになるのだろうか。あるいは、「山は死にますか」の”防人の歌”か、はたまた”精霊流し”か。実にいろいろなタイプの曲を作る。しかし、どれも私の好みではない。私はいわゆるメッセージ・ソングというものは嫌いだ。聴き手にある一定の解釈を強いるからだ。歌は、聴く人の取り方で幾通りもの解釈ができるはずだと思うからである。また、お涙ちょうだいも同様だ。これを聴いたら。ほら、感動するだろう、と強いられる気がする。

それなら、何故私がさだまさしを聴くのか。大変申し訳ないことだが、YUMING の場合と同じように、服部克久・隆之親子の素晴らしいオーケストレーションを聴くためなのだ。渡辺俊幸もいい。(ちなみに渡辺俊幸は一時、赤い鳥のメンバーだった)彼らのアレンジがあってこそのさだまさしなのだ。

それを前提として、さだまさしはいい。メロディが心に沁みてくる。そのメロディとオーケストレーションに乗ると、理屈っぽさもお涙ちょうだいも許せるのである。さだの詩が生きてくる。説得力を持つのだ。

”ONLY〜薔薇園〜” ”駅舎(えき)" ”親父の一番長い日” ”ひまわり”そして、唯一全曲おすすめのアルバム「夢回帰線」の中の”風に立つライオン”。どれも私にとっての彼の代表曲だ。

この「夢回帰線」はほかのアルパムにはない、洒落た「粋」がある。変に気取っているわけではない。一曲一曲が、色彩の豊かな映画の一シーンのようにストーリーを思い浮かばせる。(ほとんどのアレンジは渡辺俊幸である)

彼は毎年、8月6日の広島の原爆の日に、同じ被原爆の地、長崎で無料コンサートを開くのが恒例となっていて、今年もNHK のBS2 で生中継を見た。やはり、いい詩を歌う人だ。それでも、私はこれからも彼の曲から好みのものを選んで聴くだろう。

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2004.08.05

私のこだわり(4)コーヒーと牛乳

コーヒーと牛乳

私は牛乳が嫌いだ。 たぶん、昔の給食の脱脂粉乳のせいだ。

私はコーヒー党でもない。どちらかと言えば紅茶党。いや、緑茶党だ。

しかし、毎朝、毎晩、コーヒーと牛乳を混ぜて温め、欠かさず飲んでいる。

身体のためではある。しかし、不思議なもので、この好きではないもの同志を混ぜたものは、結構好きなのだ。カフェ・オレなどと気取る気はないが。・・・ちなみに砂糖は入れない。牛乳の甘みで充分である。

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音楽ひとりごと(6)YUMING

YUMING(荒井由実・松任谷由実)

私のYUMING(ユーミン)との出逢いは浪人中の1975年だ。当時、東京唯一の民放FM局「FM東京」(現TOKYO FM)から流れて来たのがアルパム「MISSLIM」の「生まれた街で」「瞳を閉じて」「やさしさに包まれたなら」などの一連の曲だった。詩も曲もそれは確かなものだったが、何よりバックのキャラメル・ママの存在が大きかった。そして、それは既に松任谷正隆のアレンジによるものだった。それはそれまでのいわゆるフォークともロックとも違う、あか抜けた、拡がりのある斬新なサウンドだった。

間もなく次のアルバム「コバルト・アワー」がリリースされたが、のっけのタイトル曲のプロペラ機の効果音に胸躍ったものだ。
ファースト・アルバム「ひこうき雲」を聴いたのはその後だが、それはいかにも未熟なものだという印象だった。たぶん、それを最初に聴いていたら、かなり彼女に対するイメージは違うものになっていたと思う。その後の彼女への深い思い入れは、なかったかも知れないと言えるくらいだ。一度固定観念を持つと、頭から毛嫌いする傾向が私にはある。

とにかく、最初に聴いたのが「MISSLIM」だったから、かなりのめり込むことになってしまった。前述のハイファイセットの存在も相乗効果をもたらしたと思う。その輝きは、81年のミニアルバム(30cm/45RPM の当時のはやりのスタイルだった)「水の中のアジアへ」の頃まで続いた。

ストリングスを多用し、生身の人間が弾く、ひとつひとつの楽器の音が輝いていた、アナログな音作りが懐かしい。今も松任谷正隆氏のアレンジは続いているが、目新しさやデジタル処理にばかり重きを置かれているようで、胸を震わせるような感動がない。もちろん、それが今の彼女なのだと言うべきなのかも知れない。昔の彼女に触れたければ、昔の曲を聴けば良い。ただ、彼女にかわる優れたアーティストが出ていないのも事実だ。

ここまで書いて気付いた。私にとっての「YUMING」は、彼女の詩や曲や歌だけでは成り立たない、正隆氏のアレンジによってはじめて存在しうる作品群の総称だということだ。

かつての「YUMING」に触れたい私は仕方なく、昔パソコン通信時代に作ったカセットを、今でも愛車の中で鳴らすのである。このカセットのことは、またパソコン通信の話としてまとめて書こうと思う。

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2004.08.04

十回目の夏

今年の夏は記録的な暑さだが、9年前の8月4日もとても暑かった。

忘れもしない。午前中、目白の仕事を終えて、日暮里に移動する車の中で弟から知らせを受けた。「すぐに病院へ来て下さい。」「仕事中なんだ。・・・それって、そういうこと?」「そういうことです。」

父が腺癌だと知らされたのは、わずかひと月前のことだった。その年の春にはボランティアで神戸にも出かけていた。そう、大地震のあった年だ。直前にはかつての教え子たちと、ペナン島へ旅行もしていた。元気だったが、妙に痩せてきていた。それでも、まさかそんなこととは思いもしなかった。検診でも見つからないたちのものだったらしい。

責任上、社員を日暮里に降ろし、すぐに帝京病院へ向かった。死に目には会えなかったが、せめて遠いところにいなくて良かった。兄は子供のキャンプで地方に行っていた。

病院へ着き、車を駐車場に入れるのももどかしく、救急へ駆け込んだ。そこには母が呆然としていた。「ごめんなさい。」母の言葉はどんな意味だったのか。突然のことに、なすすべもなかったことを詫びずにいられなかったのか。

待合室で、私は声をだして泣いた。霊安室に移ってからも涙は止まらなかった。もっと、父に会いに寄れば良かった。父はしばらく自宅で寝ていたのだ。こんなに早く逝ってしまうとは思わなかったのだ。どんどん衰えていく父の姿を見るのがつらくて、たまたま近くを車で通ったときも、寄る気にはならなかったのだ。ただただ、それを後悔した。享年68歳だった。

四十近い男が泣きながら、シャツの中を流れる汗を漠然と感じていた。
今年はそれから十回目の夏である。

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2004.08.02

私のこだわり(3)PHS

PHS

もう、半ば忘れられた存在だ。一時は女子高生などにポケベルに代わるコミュニケーション・ツールとしてもてはやされたなどと、遠い昔のことのようにさえ思える。

ところが、軽量のノートパソコンやPDAと共に、私の「どこでもインターネット」体制に重要な役割を果たしているのが、何を隠そう、PHSなのだ。
PHSの利点は、64kbps という通信速度と安価な通信費だ。この64k という数字、0.064Mbps と書くとブロードバンド時代の数字としては低速に思えるが、かつてのISDNと同じで、一般携帯電話の通信速度9600bps の6.7倍である。ドコモの第3世代携帯と呼ばれるFOMAでも64k で通信できるが、通信費はざっと5倍かかる。(384kbps と高速ながら、結果的にさらに高額になってしまうパケット通信は論外だ)
PHSの64k でも、電波状態が悪くなければ、画像の多いサイトを閲覧して、そうイライラさせられることはない。

(唯一の欠点は郊外に弱いことだ。富士や自然を撮りに町から離れたりすると、全く使い物にならない)

私のPHSはブルートゥースという無線技術を使った機種で、鞄の中に入れておけばケーブルをつなぐことなく、パソコンをインターネットへと繋いでくれるのだ。

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私のこだわり(2)ローマ字

気持ちが悪いもの

ローマ字表記の間違い。・・・特に「じゃ行」

新宿が"Shinjyuku" だったり、吉祥寺が"Kichijyoji" だったり、川越街道のカラオケ屋の看板が"Jyohoku" だったりするのがその一例。 これらの「y」は要らないのだ。 日本語で「しんじゅゅく」と書くようなものだ。

日本ハムの新庄のユニフォームは昔、やはり間違っていたが、今は"SHINJO" になっているようだ。これが正解!

そのほか、「ちゃ行」・・・"cya" ではなく"cha" が正解。
また、「八丁堀」は"Hacchobori" ではなく、"Hatchobori" が正解。
こんな間違いは、ほかにもよく見ると街中にたくさんある。みなさんも探してみてほしい。

さすがに鉄道関係は間違いが少ないようだが、バスの行き先表示に間違いが多い。 あれは誰がそうしているのだろうか。

ローマ字相談室

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