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2004.09.27

私のお気に入り(6) iPod

i Pod  [アイポッド・携帯音楽プレーヤー]

  凄い世の中になったものだ、と言っても、もう手に入れてからだいぶ経つが、かつてウォークマンやMDプレーヤーを持ち、テープやディスクを入れ替えるのにまどろこしい思いをしたのが懐かしい。とにかく、CDが何十枚も入るのだから、すばらしい。既に iPod も四代目になるが、私のは二代目のモデル。10GB の容量があり、1300曲あまりで 9GB。たまに聴かなくなった曲を削除する必要がある。

  私の iPod の中身はと言うと、30年以上も前の和製フォークからGS、歌謡曲
、ユーミンは昔のものが何枚か。クラシックもあれば、S&G、カーペンターズ、フランク・シナトラ、リンダ・ロンシュタットの "What's New" 、などなど、キリがないが、これらをシャッフル再生をすると、いろんな曲が予告もなしに出てくるわけだから、まさに有線放送か、ジュークボックス状態。しかも、リクエストを出しているのは全て自分だから、嫌いな曲が出てくることもない。

  車に載せて、電源もつなげばバッテリー切れの心配もなく、運転中にディスクを入れ替える必要もなく、何時間でも演奏し続けてくれる。曲の先送りもワンタッチだから、その時の気分に合わない曲はパスできる。なんてわがままなんだ!

  曲の転送は全てパソコンから。"iTunes" というソフトが、曲名、アーティスト名、アルバム名をインターネット上のデータベースから自動的に取り込み(市販のものならほとんどできる)表示してくれるから、いちいち手入力の必要もなく、CD から MP3 に変換し、高速ケーブル経由であっという間に転送は終わる。

  まさに音楽づけの私には夢のマシーン。これが、これからまたどんな進化をするか、楽しみなところである。

愛用の iPod

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2004.09.26

音楽ひとりごと(11)岩崎宏美

岩崎宏美[歌手]

  1974年、既に「花の中三トリオ」を生み出していたオーディション番組「スター誕生」で、地味ながら小坂明子の「あなた」をのびのびと歌う女の子がいた。当然のようにトントン拍子でグランド・チャンピオンになり、翌年4月に「二重唱(デュエット)」でデビューした。それが岩崎宏美だった。その後の活躍については、周知の通りである。

  子供時代から彼女の才能を伸ばしたのは、声楽家の松田トシ(敏江)。デビュー後、一連の曲を提供したのが、作詞家・阿久悠と作曲家・筒美京平、三木たかし。そして、たぶんほんとうの意味での「歌手・岩崎宏美」の育ての親は、プロデューサー・飯田久彦だろう。この人たちのバック・アップで歌手としての地位を不動のものとした。

  この飯田久彦氏は、言わずと知れたロカビリー歌手「チャコ」、その人である。表舞台を退いた後、ビクター・レコードのプロデューサーとして数々のヒット曲やスターを世に送り出した。サザンの「チャコの海岸物語」の "チャコ" も、彼のことだと聞いたことがある。1982年の岩崎のアルバム "Love Letter" では、「ルイジアナ・パパ」のクレジットでバック・コーラスにも参加している。そして、現在も彼女が移籍した「テイチク・レコード」の社長として、相変わらず彼女を支え続けているのだ。

  私が選ぶ岩崎宏美のベスト・チョイスはロマンスでも、思秋期でも、聖母たちのララバイでもない。1983年のアルバム「私・的・空・間」の1曲「生きがい」(有馬三恵子/詩・筒美京平/曲・萩田光雄/編)だ。ホルンを思わせるあたたかいシンセサイザーの響きが、彼女の伸びる歌声を生かしている。この曲はなかなかCD化されなかったが、デビュー30周年のCD-BOXでようやく日の目を見た。膨大な資料付きでもあるこのBOX を手に入れたのは言うまでもない。

  テレビで見た彼女のベスト・チョイスは、NHK「ふたりのビッグ・ショー」での八神純子とのデュエット「聖母(マドンナ)たちのララバイ」。声の伸びでは引けを取らない八神との競演と、NHK ホールのパイプオルガンが効果的だった。もう、二度とありえないだろうシチュエーションである。

  彼女はまだまだ意欲的。同世代(1958年生まれ)歌手として、これからも応援して行きたい。

岩崎宏美公式サイト

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2004.09.24

ここで一句(3)彼岸

  天気予報でも、猛暑終息宣言があった。まだまだ蒸し暑さは感じるものの、やはり彼岸で季節は変わるのだと、改めて知る。自然とは不思議なものだ。

  涼しくなると、静かな音楽でも聴きたくなる。やはり、ストリングスが秋に似合う。

  秋風は 暦通りに 彼岸から /9月21日 (2000)

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2004.09.23

音楽ひとりごと(10)東海林修

東海林修 [しょうじ おさむ / 作・編曲家]

  70年代はじめ、伊東ゆかりが渡辺プロから独立して、キングレコードからコロンビアのデノン・レーベルに移籍したころ、少々風変わりなアルバムを出した。このデノン・レーベルは、コロンビアの海外向けブランド "DENON" (デンオン)を由来としているが、当時としては海外アーティスト(ベッツイ&クリス、マイク・カープやジミー・オズモンドなど)を取り上げたり、ガロを擁した "MUSHROOM" を立ち上げたり、先進的、画期的な試みをするレーベルだった。

  風変わりなアルバムというのは、"LOVE" で、アーティスト名は "YUKARI ITO with THE GREEN GINGER" とクレジットされている。そして、このアルバムを制作したのが、当時原盤制作会社だった「アルファ・ミュージック」(作曲家・村井邦彦が作った会社で、赤い鳥、ハイファイセット、荒井由実、吉田美奈子、ガロなどを世に送り出した) であり、全曲のアレンジと、"THE GREEN GINGER" の一員としてコーラスに参加していたのが東海林修だった。ストリングスを使わず、少人数ながら当時一流のミュージシャンをバックに迎えたこのアルバムは、とにかくお洒落で大人の雰囲気が溢れていた。

 それを遡ること数年の頃、やはり、伊東ゆかりのアイドル映画「愛するあした」(共演:松原智恵子、ワイルド・ワンズ)の同名主題歌で、この人の曲とアレンジの素晴らしさは知っていたし、伊東ゆかりのアルバムを揃えて行くうちに、外国ポップスのカバーが全盛だった時代からアレンジャーとして大活躍されていたことも知った。(ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ・東京」でさえも!)

  そのほか、主に渡辺プロの歌手とのつながりが多かったようだが、布施明「愛のカンツォーネ」、トワ・エ・モア「地球は回るよ」「リンゴの花の下で」、ザ・タイガース「嘆き」「君を許す」などなど、当時は服部克久や宮川泰などと並んで私の大好きな作・編曲家だったのだ。ザ・タイガースに関してはアレンジのみ(作曲は村井邦彦)ではあるが、沢田研二のグループの一員としてのソロ・アルバム "julie" での、当時としては彼の歌唱力には勿体ないくらいのハイセンスなその音作りに驚いた。

  また、ガロやステージ101関連のアーティスト、独立後の沢田研二の一連のヒット曲を編曲し、あか抜けたセンスとストリングスの豊かなサウンドに魅了されたものだ。レコード大賞や、ヤマハのコンテストでも、数多くの受賞をしている。

  いつしか、シンセサイザー音楽に専念(?)されるようになり、その方面でも成功されたようだが、私のストリングス・フェチの好みからは外れてしまった。是非また日本の歌謡界・ポピュラー界で活躍されることを熱望している。


東海林修さんの公認ファンサイト

なんと、東海林修氏がネイチャーフォトをご趣味にされているとこのサイトで初めて知った。

お詫びと訂正:  ドラクエの音楽はすぎやまこういち氏の作品でした。お詫びして訂正させていただきます。
  (本文も書き換えさせて頂きました)

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2004.09.20

音楽ひとりごと(9)星勝

星 勝 [ほし かつ / 作・編曲家]

  かつてのGS ブームの終わり頃、あの鈴木ひろみつを擁する「モップス」という玄人好みと言われたグループがあった。タイガースやテンプターズなどのようにアイドル性はあまりなかったのだが、根強いファンがいたようだ。代表曲は「朝まで待てない」や末期には吉田拓郎の「たどりついたらいつも雨降り」(共にボーカルは鈴木ひろみつ)などがあるが、前述のヤマハ主催のコンテストに星の歌唱で二年連続出場したのが「雨」と「何処へ」の二曲だった。

  「雨」はアマチュアによる曲をモップスとしてアレンジしたもので、1971年のポプコンでグランプリ受賞、同年の世界歌謡祭出場。「何処へ」は星勝本人による曲に本人名義でアレンジし、1972年のポプコンでまたまたグランプリ受賞、同年の世界歌謡祭で入賞している。「雨」も編曲の中心は当然、リーダー星によるものである。この二曲はそれまでのモップスとはあきらかに路線の違うものだった。ハード・ロックからプログレッシブに移行したと言えばいいだろうか。コンテストにふさわしく、フル・オーケストラを駆使し、スケールの大きい曲に仕上がっていた。当時、彼の風貌は「謎の中国人」のような髭をたくわえた、むさくるしいイメージだったので、私にとっては、かなり意外な展開だった。

  さて、星勝というアレンジャーが本格的に活躍を始めたのは、グループを解散し、小椋佳のアレンジを一手に引き受けるようになってからである。小椋佳が初期の「さらば青春」「少しは私に愛を下さい」(編曲はどちらも小野崎孝輔)のイメージから、CM曲として大ヒットした、1975,6 年の「めまい」「揺れるまなざし」(共に星と小野崎の連名)でがらっと雰囲気が変わったあのとき、小野崎氏と入れ替わるように小椋佳の重要なバックボーンとなったのが星なのである。

  そのほか、「いにしえ」がヒットした「日暮し」というフォーク・グループや、井上陽水、安全地帯、高中正義、来生たかお、といった当時の "Kitty" レーベルのアーティストたちのレコードには必ず彼の名前があった。彼の高音の利く声で、コーラスにも数多く参加している。最近でも玉置浩二や井上陽水を支えている。

  とにかく、服部克久・隆之親子と同様に、ストリングスを多用したアレンジは間違いがない。

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2004.09.19

HP 更新

  3か月ぶりに本家HP "UNCLE BEAR'S GALLERY" を更新した。先月の「束の間の避暑」の時の風景である。

  このところ、中学の同期会の準備、このブログの書き込み、(ありがたいことに)ポストカードの大量注文やら、当然本業の仕事やら、HP 更新より優先順位の高いものが多くて、ここまでのびのびになってしまった。そう、久々の二連休(三連休ではない)で息をついているところである。実は今夜から遠出をしようともくろんでもいたのだが、夏の疲れ、慢性的な寝不足のことを考えて今回は止めにした。ちょうど季節は、夏でもなく秋でもなく、中途半端な時期である。気が向けば明日近場に出かけるかも知れないが。浜離宮のキバナコスモスや、巾着田の彼岸花の情報も入っている。

  話をHP に戻すと、北軽井沢の二枚は、早朝の散歩で出逢った清々しい風景だ。やはり、早起きは三文の得ということだ。そのほかは、ほとんどが北軽井沢から高峰高原へ向かう途中で立ち寄った「池の平湿原」の風景となった。「夏の花」としてはマツムシソウ一枚だけ分け、あとは花も含めた一連の風景という位置づけで「夏の風景」に並べた。

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2004.09.18

ここで一句(2)南風

季節の変わり目

  九月も半ばを過ぎて、ようやく酷暑も遠ざかったようだ。
  それでも今日は南風で気温も上がり、まだまだ日中は秋になったという気分にはなれない。
  「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、今年は間に合うのか。秋分の日は、もうすぐだが、寒冷前線はまだ北にある。

  夏惜しみ 暑さ戯れつく 南風 /9月1日 (1999)

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2004.09.14

私のお気に入り(5)大相撲

大相撲

  また大相撲が始まった。私の大相撲の歴史は、高校時代から始まる。時はまさに輪湖時代の幕開けである。輪湖と言えば、「輪島」と「北の湖(うみ)」のことだが、私は北の湖がまだ関脇の時代からのファンだった。といってもスピード出世だったから、あっという間に大関、横綱と駆け上り、そのほとんどは横綱・北の湖という存在だった。輪湖時代といえど、若い北の湖はその後、無敵の強さで独走するのだが、その風貌とあまり笑わないキャラクターも伴って、嫌われるのも日本一だった。しかし、私はあまのじゃく。出世前から注目していたことも自負としてあったが、嫌われれば嫌われるほど、応援したものだ。現在はもちろん、言うまでもなく、一代年寄「北の湖」親方であり、日本相撲協会の理事長である。

  そのほか、ひいきだった歴代の力士を挙げると、北の湖と同部屋の北天祐(この力士は五月人形に例えられるほど、均整の取れた力士だった)、地味だったが蔵王錦、早くして亡くなってしまったが大翔鳳、初々しかった琴錦(とんだ艶消しになってしまったが)、渋いところで鷲羽山、といったところか。

  若貴時代から興味が半減してしまったが、今なら当然「朝青龍」だ。そのほか、もっと頑張って欲しい力士は若の里。亡くなった伯父と「こいつは強くなるね」と話したことが今では大切な想い出なのである。

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2004.09.13

ここで一句(1)キンモクセイ

キンモクセイ

  今年もキンモクセイの香りが漂いはじめた。私にとって、春のジンチョウゲ、クチナシなどと共に、香りの好きな花のひとつだ。

  キンモクセイが香ると、三鷹台にある立教女学院の校庭を思い出す。中学生の頃、教会の東京教区の合同礼拝が毎年秋分の日あたりに行われ、そこでいつもこの香りがした。それを思い出して五年前に読んだ句である。
  その頃、ユーミンが通っていた学校だが、まだ知る由もなかった。

金木犀 学びの庭の 遠い夢 /10月12日 (1999)

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2004.09.12

カスタマイズ

会社のパソコンのその後

  インターネット接続に10日もかかってしまった。Bluetooth のインストールに手間取ってしまったのだ。VAIOノートには内蔵されていたのでなんの苦労もなかったのだが、USB モジュールのドライバ・インストールと、PHS との接続がなかなかうまくいかなかったことが原因だった。

  ご時世でブロードバンド導入の予算がないため、しばらくはこれで自腹通信である。

  しかし、繋がってみるとやはりメリットが大きかった。まず、WINDOWS UPDATE をすることで、なんとディスプレイの解像度が高くなったのだ。17インチの画面と合わさって、作業領域は一気に広くなった。文字は小さくなったが、*眼鏡があれば大丈夫。それよりも書類を複数表示できるのが便利だ。

  メールも仕事用のアドレスだけだが、送受信に成功。ノートンもインストールして、ファイルの更新(Live Update) も済ませた。なにやら、早速ウィルスを退治したとのメッセージが・・・。

  FTP ソフト(FFFTP) とエディターは社員向けのiMode 専用サイトをいじるために必要。

  ATOK(日本語変換)のユーザー辞書もVAIOノートのものを移植して、登録単語が使えるようになった。これは iMac とも共通の辞書だ。

  まだインストールしたいソフトはいくつかあるが、ひとまずこれでカスタマイズは終了だ。

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2004.09.09

私のこだわり(8)うどん

うどんのつゆ

  ラーメンの話が出たところで、麺喰いの私としては、うどんについても書いておこうと思う。

  まず、私は血統として完全な東北人系なのだが、(父は岩手生まれ、母は東京生まれだが祖父母とも秋田の出)東京の醤油色のつゆが苦手である。これは関西はどうだとか、うすくち醤油がどうだとか、という知識を得るよりずっと前からのことである。なんで、こんなに色も味も濃くしなくてはいけないのか、と子供心にずっと疑問だった。店屋物のうどんなど、湯で薄めたいほどだった。うどんが茶色く変色しているのが、なんだかかわいそうだった。前世は関西人だったのかも知れない。

  おとなになって、讃岐うどんというものを知り、その薄い色のスープと歯ごたえのあるうどんがとても気に入った。今まで食べていたものはなんだったのだろうと思った。だいたい、関東の人は味よりも塩気を重んじる傾向があったのではないか。今でこそ「だし」に手間暇かけることが多くなったが、まだ時代がそれだけの贅沢を許さなかったのかも知れない。一方関西の人たちは、食い道楽の精神があって、貧しいなりにも最低限の味覚のセンスを保ったのではないか。
  うすくち醤油はけっして薄味醤油ではない。むしろ使い方によっては塩分は強めになる。しかし、何が何でも力でねじ伏せようというような、濃い口醤油の強引さはない。だしとのバランスをとることで、味わいの深いものになるのだ。

  関東の濃い口醤油、関西のうすくち醤油、という違いには、使われる水質にも関係がある、と聞いたことがある。ミネラル分の割合の違いで、だしの取り方や塩分の加え方にも差が生まれたのだという。それにしても、東京のうどんはしょっぱすぎだ。

  幸いなことに、昨今のうどんブームで東京にも讃岐うどんの店が増えた。しかも手軽な値段で食べられるのはありがたい。これには冷凍技術の進歩が役に立っているらしい。それでも、まだまだ、ラーメン屋に比べれば、かなり少ないが、スーパーの冷凍食品売り場にあるうどんも、かなりイケるから、自分で作ることにしている。

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2004.09.07

私のこだわり(7)ラーメン

行列のできないラーメン屋

  私はラーメンが大好物である。しかし、行列は大嫌いである。どんなに美味いラーメンだろうと、何時間も並んで食べようとは絶対思わない。たかがラーメン、されどラーメン、という言い方はあるだろうが、ラーメンはラーメンだ。評判のラーメン屋でたまたま食べることができても、涙が出るほど、あるいは「生きていて良かった!」などと言えるほどのものではあり得ない。そこそこ五百円から六百円で、そのような感動をもらおうとも思わないから、まずくても気にしない。二度と行かないだけの話だ。また、ラーメンで七百円以上するものに興味はない。高ければ美味くて当たり前のこと。それでまずければ、腹が立つ。ここの百円の差は大きいのだ。
  さらに行列のできるラーメン屋の高飛車な態度が嫌いだ。名物の頑固親父など愚の骨頂。客は客だ。神様なのだ。そこまでひどくなくても、待たせて当たり前、という態度の店員を見るのも嫌だから、近くにすいている店があれば、当然のようにそちらへ入る。

  実は今まで、友人に誘われて、そのたぐいの店へ何軒か行ったことがある。しかし、並んだ時間に値するような味には出会えなかった。そんなものである。みんな、人が並んでいるから並ぶのだ。並んでその道を究めよう(?)とする自分が好きなのだ。それを愚かとは言えない。人は人、それぞれだから。

  私がささやかな幸せを感じるのは、期待をしないで入った店が、意外に美味かったときだろう。

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2004.09.06

浅間山の想い出

  突然のように「浅間山」が噴火のニュースが耳に入り、驚いた。一ヶ月前に軽井沢を訪れたときは、そのような気配は微塵も感じられなかった。

  前にも書いたように、子供の頃から軽井沢周辺には随分縁があった。カブスカウトからボーイスカウト、そしてリーダーとして後輩たちの引率しながら、軽井沢には毎年通ったし、浅間山の西側に位置する高峰高原へも、夏のキャンプやら冬のスキーやらでよく行った。小諸でキャンプをしたこともあった。従って、いつも浅間山を近くに感じていたのだ。

  カブスカウトの中軽井沢キャンプ中、お決まりのハイキングコースは「小浅間山」だった。そこは、中軽井沢駅から北へバスで鬼押し出し方面へ向かう途中の「峰の茶屋」まで行き、そこから小一時間登ったところにある、浅間山が間近に迫る、眺めの良いところだった。近いから故に、最近ではたぶん立ち入り禁止地域になっていると思う。ましてや今回の噴火ではなおさらだ。この小さな山の一帯には「あさまぶどう」(たぶん俗称だと思う)と呼ばれる実のなる背の低い植物が自生していて、紫色のその実をつぶしてジュースにしたりしたものだった。そして、小学生の集団は、そこからしばらく山道を下り、当時西武デパートの軽井沢店や、スケートセンターなどがあったところまで一生懸命歩き、そこから再びバスに乗り、中軽井沢へ帰ったのだ。

  さらに、中学生の年齢であるボーイスカウトでは、浅間山の登頂にも成功した。そのときは高峰がベースキャンプだった。当時、食料は食パンと水だけだったと思うがリュックに入れて、必死に登った記憶がある。そこは火山だから当たり前なのだが、荒涼としていた。今では笑える話だが、下から眺めるといかにも山頂に見えるところが、実は前掛山という外輪山だったので、その上にさらなる山頂が見えたとき、私は大きく絶望したものだ。そこからまた思い直し、やっとのことでたどり着いた山頂近くの斜面で、(平らなところはなかった)味気ない食パンと水を口にしながら、それなりの達成感を感じたと思う。私が登った、一番高い山であり、今では登ることも許されない、貴重な想い出だ。

  蛇足になるが、今回ニュースでも一部誤報があったように、火山灰が降った北軽井沢地区を長野県と思っている人が多い。当然ながら群馬県だ。しかも、北軽井沢という地名はなく、長野原町である。何故「北軽井沢」と呼ぶかというと、昭和37年に廃止された草軽鉄道の駅名に由来するのだ。それを「軽井沢」というブランドとして不動産開発に利用され、現在に至るというわけだ。キャベツの産地「嬬恋村」はその西に隣接する。


草軽鉄道の路線図


  それにしても、良いときに軽井沢へ行けた。噴火がひと月早かったら、つかの間の避暑もできなかったかも知れない。来年の夏も、浅間の神様のご機嫌が良いことを願う。

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