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2005.07.28

デジタルの落とし穴

  大げさなタイトルだが、テレビのデジタル化の話である。

  我がマンションも、ケーブルテレビ (J:COM) がデジタルに変わった。 そもそも、引っ越し前はデジタルだったのが、ここへ入居してケーブルの契約をするときに、このマンションはデジタル非対応であると聞かされ、「なんで今時!」と憤慨したものである。 そのときは新たな配線工事は不可能、ということだったが、よほど要望が多かったのか、急にデジタルへの移行の工事が始まった。

  さてさて、我が家のテレビは相変わらず4:3 のブラウン管だから、画質は従来と変わらないながら、ハイビジョン放送でしか見られない番組が見られるようになったのは、ありがたい。 BSも地上波も、デジタルならではのデータ放送や番組予約などの便利な機能もある。

  ところが録画ということになると、このデジタル化は非常に不便なものとなる。「コピー・ワンス」と呼ばれる著作権がらみの違法コピー防止策なのだが、善良な市民としてという前提で、番組をそのまま残すのならまだしも、編集してオリジナルなDVDをつくるとなると、ただただ邪魔なシステムなのだ。

  そこで考えた自衛策が、アナログのBS放送を、独自に受信するという方法。 幸い、HDD/DVD レコーダーはアナログBSチューナー内蔵であるのだ。 今まで使わなかったこの機能を、自分でパラボラ・アンテナを立てることで生かそうと考えた。 各戸のベランダで配線工事が進む中、あらたにパラボラを増設するという行動は、奇異に映るだろうか。 既にある「スカパー!」(これもアナログ)のパラボラと、今回のBSのパラボラが、我が家のベランダの両端に、微妙に向きを異にして空を仰いでいる。

  これでケーブル経由ではコピーワンスとなってしまう番組が、NHK−BSとtbsチャンネルに限ってこれからも従来通りアナログとして扱えることとなった。 めでたしめでたし。
  (私はスカパー!では「tbsチャンネル」しか契約していない)

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2005.07.26

父の想い出(豊島高校)

  父の記念式に出席して下さった父の教え子の方たちは、都立豊島高校の定時制で父が担任をしていたクラスの生徒さんたちだ。 父は戦後間もなく岩手から上京し、千葉県で教職に就いたがその後勉強し直して都立高校の教師になり、その最初の赴任先がこの豊島の定時制だった。 当時の定時制は、本来の目的通り、勤労学生がほとんどだった。 偶然にも私の兄がその50年後に同じ職場に就くのだが、当時とはかなり生徒たちの事情も違うようだった。

  話を戻し、その50年前の教え子の方たちから当時のエピソードを聞き、甦った想い出が夜の豊島高校の校舎である。 夜の学校は、結構怖い。 誰もいたいけな子供に怪談話を吹き込むような悪さはしなかったが、それでも当時は照明も暗く、ギシギシと音をたてる廊下はそれだけで不思議な空間だった。 そして極めつけは理科室の人体模型だ。 顔や身体の左半分の皮膚を剥がれて、内蔵や脳が露出している、あれである。 ホルマリン漬けになった、何かの標本もあったように思う。

  それでも私は、その空間が嫌いではなかった。 いつも年子の兄と一緒だったこともあるが、父の職場で遊ぶのはうれしいことだった。 校庭や体育館で、運動会や文化祭のたぐいの行事にもよく行った。 当時、教師たちは家族をそのような場に呼んでいたようで、父の同僚の子供たちとも仲良くなった記憶もある。 給食室は天井が高く、大きなレンガ造りのかまどがいくつか並び、大きな鉄の釜が乗っていた。 そして昼間通った二年保育の幼稚園も、豊島高校に隣接する千早幼稚園だったし、その後も大成小学校への通学路は、豊島高校の塀に沿って続いていたのだから、そのエリアはまさしく私の庭だった。

  私の家族・親戚は、この豊島高校と縁が深く、母とその年子の妹(叔母)、弟(叔父)も卒業生である。 そして私も十数年後にこの校舎で学ぶことになるのだ。 当時都立高校は学区・学校群というものがあり、通う高校を自分で選べなかった。 板橋高校と北園高校にも行く可能性はあったのだが、豊島に割り当てられたのだった。 同時期、父はとなりの板橋高校にいたので、私は胸をなで下ろしたものだ。 その板橋高校へ割り当てられた中学時代の友人から、最近の同期会で父の授業の話を聞いたが、その倫理社会は、かなり難解だったようだ。

  実は懐かしい木の校舎で学んだのは、入学後の数ヶ月だけだった。 既に大部分は鉄筋の校舎に建て替えられていて、ちょうど移行時期にあたっていた。 それでも今思えば、わずかな時間でもそこに戻れたことが幸せだったと思う。 当時は新しい校舎のほうが嬉しかったのとは言え・・・。


 

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2005.07.25

父の想い出(伊豆大島)

  父が亡くなって満10年となる。 それに先だってこの日曜日にごくごく内輪の記念式を行った。 出席者から、いろいろな父にまつわるエピソードを聞かせてもらったが、私の中で急に甦ったのが「伊豆大島」のことだった。

  父は数年間、教頭となって最初の赴任地、大島南高校へ単身で行っていた。 この高校は全寮制で、教頭であると同時に、寮の舎監長でもあった。 母も行かれれば良かったのだが、育ち盛りの私と弟がいたので、月に一度、私たちに留守番をさせて行くのが精一杯だった。(兄は大学近くに下宿していた)

  おそらくほとんど寝る間もないほど仕事をしていたと思う。 飲めない酒も、飲んでいたようだ。 それも付き合いで、というものではなく、わずかな時間に熟睡するための「睡眠薬」として。

  私は大学生となり、自動車免許を大島の合宿教習所で取ることにした。 父の住まいは大島の南端、波浮(はぶ)の港の近くであり、教習所は大島空港に隣接し、船ならば元町港に近かった。 学科教習のある前半は、文字通り合宿だったが、宿泊費節約のため、実技だけになった後半は、父の宿舎から通うことにした。 食事はどうしていたのか、全く覚えていない。 自分で作っていた気もする。

  多忙な父に、教習所まで車で送らせたこともあった。 今思えば父は52歳くらいだ。 眠る時間もろくにない毎日だったろうに、申し訳ないことをした、と悔やまれる。

  大島の風景を思い浮かべるとき、自然に聞こえてくるのがユーミンのアルバム「紅雀」の曲の数々。 特に「9月には帰らない」は、忘れられない。

  当時、まだウォークマンも出る前で、ソニーの技術の最先端の「カッパもびっくり」の謳い文句で一世を風靡したカッパブックス・サイズのテープレコーダー(モノラル)に、このアルバムのカセットを入れ、聴きながら東海汽船の路線バスに乗って教習所までの往復を過ごした。

  その時期は春休みから5月末まで(途中大学へ通学のため帰京)だったので、9月ではないのだが、「灯台」「潮騒」「バスの窓」等のその歌詞は、窓から見える風景にドンピシャだった。

  ほかにも「外海をかけていく潮」「古い滑走路」など、イメージがダブる歌詩が溢れる曲が並び、見える海が「地中海」にも見えてくる。

 「紅雀」は松任谷由実名義の最初のオリジナルアルバムであるが、ユーミンの数あるアルバムの中でもかなり地味なものである。 何よりこのアルバムにはヒット曲がない。 しかし、聴けば聴くほど味の出る、私が大好きなアルバムなのである。

アルバム「紅雀」

  父がいない昼間の空き時間は、ひとりで海が見える丘に登った。 回りに誰もいないことを確認し、大きな声でユーミンやハイファイセットの歌を歌った。 

  出来ることならこの時に帰り、今の自分と幾つも違わない父と、話がしてみたい。
  このアルバムを聴きながら、一緒に大島の海を眺めたい。

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