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2005.07.26

父の想い出(豊島高校)

  父の記念式に出席して下さった父の教え子の方たちは、都立豊島高校の定時制で父が担任をしていたクラスの生徒さんたちだ。 父は戦後間もなく岩手から上京し、千葉県で教職に就いたがその後勉強し直して都立高校の教師になり、その最初の赴任先がこの豊島の定時制だった。 当時の定時制は、本来の目的通り、勤労学生がほとんどだった。 偶然にも私の兄がその50年後に同じ職場に就くのだが、当時とはかなり生徒たちの事情も違うようだった。

  話を戻し、その50年前の教え子の方たちから当時のエピソードを聞き、甦った想い出が夜の豊島高校の校舎である。 夜の学校は、結構怖い。 誰もいたいけな子供に怪談話を吹き込むような悪さはしなかったが、それでも当時は照明も暗く、ギシギシと音をたてる廊下はそれだけで不思議な空間だった。 そして極めつけは理科室の人体模型だ。 顔や身体の左半分の皮膚を剥がれて、内蔵や脳が露出している、あれである。 ホルマリン漬けになった、何かの標本もあったように思う。

  それでも私は、その空間が嫌いではなかった。 いつも年子の兄と一緒だったこともあるが、父の職場で遊ぶのはうれしいことだった。 校庭や体育館で、運動会や文化祭のたぐいの行事にもよく行った。 当時、教師たちは家族をそのような場に呼んでいたようで、父の同僚の子供たちとも仲良くなった記憶もある。 給食室は天井が高く、大きなレンガ造りのかまどがいくつか並び、大きな鉄の釜が乗っていた。 そして昼間通った二年保育の幼稚園も、豊島高校に隣接する千早幼稚園だったし、その後も大成小学校への通学路は、豊島高校の塀に沿って続いていたのだから、そのエリアはまさしく私の庭だった。

  私の家族・親戚は、この豊島高校と縁が深く、母とその年子の妹(叔母)、弟(叔父)も卒業生である。 そして私も十数年後にこの校舎で学ぶことになるのだ。 当時都立高校は学区・学校群というものがあり、通う高校を自分で選べなかった。 板橋高校と北園高校にも行く可能性はあったのだが、豊島に割り当てられたのだった。 同時期、父はとなりの板橋高校にいたので、私は胸をなで下ろしたものだ。 その板橋高校へ割り当てられた中学時代の友人から、最近の同期会で父の授業の話を聞いたが、その倫理社会は、かなり難解だったようだ。

  実は懐かしい木の校舎で学んだのは、入学後の数ヶ月だけだった。 既に大部分は鉄筋の校舎に建て替えられていて、ちょうど移行時期にあたっていた。 それでも今思えば、わずかな時間でもそこに戻れたことが幸せだったと思う。 当時は新しい校舎のほうが嬉しかったのとは言え・・・。


 

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コメント

私も豊島高校卒業です。
私の高校時代は、あちこちの学校で、校舎が木造から鉄筋に建て替えられていきました。私は運が良かったんでしょうね!私が卒業するまでは、木造でしたから。豊島高校の建て替えは、たぶん、最後の方でした。私が在籍していたころは、木造の校舎をほとんど見かけなくなっていましたから。
木造だからこの高校にいるんだ!って日頃しゃべっていた体育の先生がいました。
木枠の窓がはずれて落ちてしまった事もありました。(幸い下には誰もいませんでしたが)
床が抜けた事もありました。(ちょっとだけです)
いや!懐かしくなって書き込んじゃいました。

投稿: まっち | 2006.08.22 16:26

 まっちさん、コメントありがとうございます。 と、言うことは私より少し先輩ですね。(^^)

 木造校舎は、今でも鮮明に覚えています。

投稿: uncle bear | 2006.08.23 18:06

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